方法論に対する内側と外側からの観察と考察の差

新しい運動靴。ハイのせいで脱ぎ履きし難い。前の運動靴はローだったのだけれど僕の走り方がおかしいのか踵の上の部分が擦れて痛く、しかし今更に走り方の矯正などする気は全く無く、しかし痛いのは好ましくないので改善しようと新しい靴はハイにした。のだけれど足首の部分を締め過ぎるとやはり痛い。締め過ぎなければ痛くはないけれど靴の脱ぎ履きがとても面倒。面倒だけれどジムでの運動時以外にも履けるような物を選んだので仕方ない。元々ハイの靴が好きだし。


昨日、少しの時間だが知人と飲む機会を得た。得た、というより強制的に僕の意思に関係無く与えられた。初めのうちは大して親しくもないにも関わらず強制的に機会が与えられた理由がさっぱりと分からなかったのだが、話が進んでゆくにつれて何となく嫌な予想が浮かぶ。
この人、僕に説教するつもりかもしれない。
しかし、これは予想でしかない。あくまで雰囲気から感じ取った僕の個人的予想。実際に相手が説教するつもりかどうかは分からない。分からないのに自身の想像だけで嫌な感覚に陥る必要も無い。必要は無く幸いこの場合の疑惑の払拭は事実を知る事で簡単に行なえるので直截的に訊く事にした。
「もしかして君は僕に説教するつもりなのかな?」
「もしかしなくとも僕は君に説教するつもりなのだよ」
確定。
僕は説教される為に機会を与えられた。疑惑は払拭されるどころか強固な事実となった。機会の意味が明らかになったからなのか、その後は遠慮容赦の無い説教が続く続く。曰く「普通よりも悪い方に考える」「マイナス思考」「物事の諦めが良過ぎる」「世界に期待しなさ過ぎる」「人間を信用しなさ過ぎる」「緊張感が無さ過ぎる」「眠り過ぎる」「秘密主義者」「気取っている」などなど。
内容に反論する気は無い。外側から観察すれば外側からの観察結果が出て僕自身による内側からの観察結果とは違う内容になっても変ではないし、むしろ結果が違う事は当然なのだから反論出来る事など何一つ無い。観察者は観察者の思考で判断するのだろうし観察者本人の嗜好も在るだろう。それに「物事の諦めが良過ぎる」「世界に期待しなさ過ぎる」「人間を信用しなさ過ぎる」などは僕も自身を観察対象とした時に多少は思わない事もない。
人間の人生における最大目標は何か。僕はそれを幸福に成る事だと思っている。幸福。曖昧で抽象的で個々人により内容差が大き過ぎるが、兎にも角にも幸福になる事が人間の目標だと思っている。どんな理由も理屈も理論も論理も欲求も欲望も衝動も幸福に成る為に。僕も成れると信じているかどうかは別にして人間らしく幸福を目指している。
しかし幸福の内容に個々人により大きな差が在るとはいえ、その方法は無数に存在しているわけでもない。大抵の人間は大きく分けて三つの方法から自分に合った方法を選択する。一つ目は自分が幸福になる為に幸福と思う状況を作る方法。二つ目は自分が幸福に成る為に不幸と思う事を取り除く方法。三つ目は自分が幸福と思う状況を作りつつ不幸を取り除く方法。当然ながら三つ目が一番労力を必要とするので一つ目と二つ目のどちらかを選ぶ人間が多い。
僕には体力も根気も無い。そんな僕に幸福と思う状況を作る行為は大変過ぎて途中で挫折してしまうかもしれないけれど、幸福に成るという最大唯一の目標を挫折してしまうのは辛い。だから僕は僕の生活から不幸を取り除く事を幸福に成る方法として選ぶ。現在の状況をそのまま使用出来るので新しく状況を作る程には労力を必要としないし不幸を全て取り除けば残るのは普通な幸福。
不幸を取り除く。今現在の不幸を取り除く事は勿論、急遽訪れる不幸も速やかに取り除かなければならない。被害が最小限で済むうちに。
被害が最小限で済むうちに、とは言っても予想外の物事に対処する事は難しい。本で読んだ程度の知識だが昔の武将にとって暗殺というものはとても恐ろしいものだったらしい。それは防ぐ事が不可能に近かったから。何時、何処から、どのように襲ってくるか分からない暗殺を防ぐ事は難しい。何時までも分からない事を待ち続けて居られる程に人間の精神は強くもない。不幸も同じ。
けれど分かっていれば大した難易度ではない。分からなくても予想していれば全く分からないよりは難易度が落ちる。予想していた事ならば急遽訪れようとも防げない事はない。
という事で普段から僕は物事を考える時に最悪から考えるようにしている。最悪の不幸を想像し対処方法を考えてから次の不幸を想像し対処方法を考える。だから「普通よりも悪い方に考える」という意見も間違ってはいないのだろう。「悪い方に」ではなく「悪い方から」という違いは在るけれど、その程度では正確ではないという程度で間違っているとは言えない。僕の視点からすれば、だけれど。
だから内容に反論する気は無い。全然と断言しても良いくらいに無い。けれど僕は僕の性格や性質、思考や嗜好を変えるつもりも無い。変えようとしなくても生きていれば変わるだろうし無理に変えれば何時か何処かが破綻する。僕は無理を好まない。僕に説教する行為自体は問題無いけれど、その行為が僕を変革させる事はない。
只一つ、言いたくない事を言わないからって「秘密主義者」というのは無茶な話だと思う。それで「気取っている」なんて言われても困る。昨日も困った。