無限とか以前に精神の常識的範囲が曖昧

稀に「人間の精神は無限の可能性を秘めている」という話を聞くが納得出来ない。
この話の理由が「身体には物質的な形状が在り目に見えないが故に限界が在り、精神には物質的な形状が無くまた目に見えないが故に無限の可能性が在る」というものが多いからかもしれないけれど。
心や精神といったものは確かに物質的な形状が無く目に見えないけれど、しかし無限の可能性の根拠にはなり得ないと思う。
「病は気から」という言葉が在る。「病気と気持ちは関わりが在るの意から、転じて病気は気持ちの持ち方次第で良くも悪くもなる」という事を意味し、これは精神が身体に影響を及ぼすという事を表す言葉の一つだけれど、それは決して精神から身体への一方通行ではなく精神が身体に影響を及ぼすように身体も精神に影響を及ぼす。身体が病んでいれば気持ちだって病む事が多い。影響は相互に及んでいる。
さて、精神が無限の可能性を秘めているという話だけれど精神が身体と共に在る限り精神は身体の影響を受け続けるのだから無限の可能性を秘めているなんて事はなく、身体によって制限された範囲内での可能性でしかないと思う。
もう一つ、人間の精神は身体を離れてはいられないと聞いた事が在る。それが現在の形状を維持出来ないという意味なのか精神そのものが存在出来ないという意味なのかは知らないが、精神そのものが存在出来ないという意味は勿論で現在の形状が維持出来ないという意味も現在の精神形状が失われるという意味においては変わりない。
これも身体によって制限された範囲内でしか精神の可能性は存在しないという事であり、同時に身体の存在を考慮に入れない精神の可能性を論じる事は現在の精神形状が失われた後の話でしかなく、それは元々人間の精神だったものの可能性の話ではあるだろうが現在も人間である精神の可能性の話ではないと思う。
というように僕は「人間の精神は無限の可能性を秘めている」という話を聞くが納得出来ないのだけれど実際はどうなのだろうか。現在の僕が知っている話と想像で導いた結果なので僕の知っている話が間違っているなど場合も在り、その結果としての上記の話に信憑性など無いに等しいのだけれど。