笑顔の素敵なあの方の為に

善意の笑顔というものは強力な強制力を有している。それは或る意味では脅迫や暴力等よりも危険な。脅迫や暴力等のような外面からの強制力だけではなく内面からをも含む強制力。故に反抗心を抱き難く抗い難い。行動原理である思考や感情、欲求が反対しない、どころか賛成するのだから。
勿論、悪意の笑顔も強力な強制力を有している。けれど、悪意の笑顔は脅迫や暴力等と同程度の危険性で、脅迫や暴力等と同程度の強制力であり、こちらは外面からの強制力でしかない。それでも充分に目的を達する場面も多々在るだろう。それだけで充分な結果を得られる場合が多々在るだろう。
けれど、もし、それだけでは不充分な場面、不充分な場合、不充分な状況、不充分な状態ならば、それでも充分な効果を、充分な結果を、充分な達成を、充分な満足を求めるならば善意を笑顔を。偽善の笑顔ではなく善意の笑顔を。


しかし、偽善の笑顔で充分な事も多々在る。

積み重ねる欠落

記した後になって気が付いたけれど下記の日記が今年の8月最初だった。一週間、何も記していなかった。
別に記す事が無いわけではないと思うのだけれど、思い出そうと頭を捻っても(考えてみたら、というか考えてみなくとも「頭を捻る」という行為は不可能という事は誰しも理解出来るはずにも関わらず用法として成立する不思議。首なら捻れても頭は無理なのに)何も出て来ない。
思った事や感じた事を記すだけでも、思ってから記すまでの時間差が発生するのだから厳密には同じ内容ではなく、多少なりとも欠落している事だろう。その時間差が大きくなればなる程に欠落の差も大きくなる。しかも対象が僕。欠落という程度では済まず、この一週間で思った事や観じた事は残らず消滅したようだ。


つまり、この一週間は無意味に近い意味しかない。

僕は地に伏す

未だに夏が終わらない。何時まで続くのか。既に暑いのにも飽きた。慣れてはいないけれど飽きた。肌も焼けた。こんがり小麦色、までは成っていないけれど焼けた。夏バテも経験した。夏以外もバテているけれど経験した。早く夏が終わる事を希望する。海にも山にも行っていないし花火にも祭にも行っていない。それでも早く終わる事を希望する。外出しないのは今更だけれど希望する。夏に託けた幾つかの催し事に行く事にはなっているけれど、その前に夏の終わりを期待する。夏に託けた催し事が秋に行なわれる事になるけれど期待する。


不安定に安定していた体調が悪化。間違いようもなく過ちようもなく誤りようもなく夏が故。

太陽は白く輝きて

燃料不足。如何なる理由によりかは知らないけれど燃料が不足している。足りていない燃料を誤魔化して稼動。当然ながら限界間近で稼動させている為に余裕は無い。常に身体を重く感じるのは燃料が足りないが故なのだろう。
そして、この気温と湿度。只でさえ余裕が無いにも関わらず容赦なく上昇する気温。比例する不快感。稼動させる為の必要燃料は増加し消費速度も加速。そして増える事はなく減り続ける燃料。誤魔化しきれなくなった時、その時に稼動限界が訪れるのだろう。


いっそのこと、稼動停止させてから再起動した方が良いのかもしれない。

空は青く晴れ渡り

台風一過の後は晴天とでも決まっているのだろうかと思わずにはいられなかった今日の天気。児童や学生は夏休みに夏休みらしい天気で喜んでいるのかもしれないけれど、晴れが苦手な僕はうんざりした。昨日程、とは言わないけれど、もう少し加減した天気でも充分だと思う。夏だからといって張り切る必要など微塵も無い。何が楽しくて晴天になっているのか理解出来ない。などと、天気に対する不満を持ったところで天気が崩れるわけでもなく。
代わりにか、僕の体調が崩れたらしい。
自身の事にも関わらず推測表現なのは自身でも曖昧な状態だから。身体の何処かが痛いわけでもなく、咳が出るわけでもなく、身体を重く感じるのは普段通り。只、妙に頭がふらふらとする。浮遊感のような不安定さ。雲の上を歩くような無重力空間を進むような。生憎、僕に雲の上を歩いた経験は無く、無重力空間を進んだ経験も無いので、想像に任せた適当な言葉でしかないけれど。
熱射病や熱中症などの単語が浮かんだけれど、ふらふらとしているのは起床直後から。原因が分からないままに放っておいたら何時の間にか治まっていた。


単純な夏ばて、が一番高そうな可能性。夏の開始時期でこの状態では先が思い遣られる。

行くべき場所へ

魚は泳ぎ、鳥は飛ぶ。それは人間の観察。しかし、魚は自分で自分を泳いでいると、鳥は自分で自分を飛んでいると、思っているのだろうか。
例えば海には海底が在る。海底を歩いている蟹等を見ながら魚は飛んでいるつもりなのかもしれない。例えば空気には抵抗は在る。その空気抵抗を鳥は掻き分けて泳いでいるつもりなのかもしれない。
勿論、実際に魚や鳥が如何に思っているかなど分からない。そして言葉の意味。辞書で『飛ぶ』を調べれば『空中を行く事』と在るし『泳ぐ』を調べれば『手や鰭等を使い水中・水上を行く事』と在る。違いは『泳ぐ』には『手や鰭などを』と在る事。生物の話ではなくなるけれど、飛行機の事を飛ぶとは表現する。しかし船や潜水艦の事を泳ぐとは表現しない。
余り関係無い話になるけれど、船等の場合には航海すると表現するのにも関わらず飛行機等の場合には航空するとは表現せずに飛行すると表現する。これも疑問と言えば疑問。
さておき、『手や鰭等を使う』ならば魚も鳥も変わらない。どちらも鰭や翼等を使用せずに『行く』事はない。
トビウオという魚が居る。漢字では飛魚と表記する。トビウオは『飛んで』いるのだろうか、それとも『跳んで』いるのだろうか。魚を捕らえる為に何メートルも潜る鳥も居る。この鳥は泳いでいると表現出来るのだろうか。
自認と公認の差異だろうし差異でしかないのだろうと思う。本人が『頑張っている』と思っていても周囲は『頑張っていない』と思っている事は在る。本人が『頑張っていない』と思っていても周囲は『頑張っている』と思っている事も在る。同一の事ではないけれど同類の事。全く同じではないけれど、似ていて、そして全く違う事。結局、違う事。けれど似ている事。


仮に答が出ても、仮に答が出なくとも、泳ぐだろうと、飛ぶだろうと、魚も鳥も行く。