「死の恐怖」は想像力を持つ人間だけのものらしい

数日前の日記で「考えた事がないと言う友人」の事を記したのだけれど考えるとは何だろう。
例えば、食事をする→美味しいと思う→作り方を考える→作り方を学ぶ→作り方を覚える、という一つの物事の順序の時。
美味しいと思う。この時は受けた感覚から美味しいという反応をしている。
作り方を考える。この時は受けた感覚からの反応を自分で認識し作り方を想像している。
作り方を学ぶ。この時は実際の作り方を知り覚えようとしている。
作り方を覚える。覚えた。再現を試みるかもしれない。
では考えるという行為と他の行為との差。
状況。考えるという行為の時、対象の事を知らない状況下でなければ考えるとは言えない。対象の事を知っている状況下では考えているのではなく思い出すという行為になる。
学習。誰かが知っている事を学ぶ事。その行為は考えているとは言えないと思う。理解しようとしているのだろうし納得するかもしれないけれど考えてはいない。
考える。それは想像するとほぼ同義で在ると思う。妄想や空想など根拠の無いものから予測や推測など根拠の在るものまで含めての想像。それは「今」ではなく、「今」よりも「先の時間」の状況だったり形だったりの仮説や仮定。幾つもの仮説を立てる人間も居るし細部までの仮定を作る人間も居る。種類は違えども考えているのだろう。
「現在」から「未来」を想像する事。それが考えるという事ではないかな。