誰もが認めるという事と個性的という事は別の事

「個性的で在りたい?社会から弾き出されたいという事かな?」


社会というのは多数の人間の共通項と思われている要素を軸として構成されている。多数の人間の出来る事、多数の人間の考える事などで。性質や才能、人格などは多種多様。一昨日の日記で汚れ方の違いこそが個性ではないのだろうかと記したが当然ながら大多数の人間に共通する汚れ方は在る。恐らくそれこそが社会を社会足り得ている要素なのだろう。
だから性質や才能や人格が著しく偏っている、言い換えれば個性的な人間程に社会から逸脱し易い。個性というものは他人と共通しないからこその個性だが社会は他人との共通項目でもって構成されているのだから。そして他人と共通しない項目が多い人間程に孤独だ。共通しないから理解出来ないし理解されない。これも社会から逸脱し易い理由だろう。
歴史に名を残すような人間は個性的なのだろう。歴史に名を残している人間の半数は天才で半数は犯罪者という話を聞いた事が在る。中には天才の犯罪者も居るだろうけれど。
歴史に名を残す人間、それは社会に好意的に受け入れられている人間も好意的には受け入れられていない人間も区別無く社会から逸脱している。その人数が少ないからこそ社会は社会として成立しているが、歴史に名を残すような人間が多ければ少なくとも今のような社会は成立し得ない。
「歴史に名を残している人間の半数は天才で半数は犯罪者」という話にどこまで信憑性が在るのかは分からないが社会の構成が天才ばかりだったらどうだろう。天才とは普通の人間には到底出来そうにもない事が出来たり普通の人間の到達出来そうにもない思考を行なう人間を呼ぶけれど、万能の天才という存在は殆んど居らず大抵が一芸特化の天才で、一芸特化の人間は同じような類に属する人間以外に大して興味が無く理解も無い。恐らく社会として成立しないだろう。
そして社会の構成が犯罪者ばかりでは社会は成立しようがない。誰もが奪い合い殺し合うような行為が前提では社会そのものが成立しない。社会は性善説を前提としているわけではないが奪い合わない殺し合わない事を前提としてしか成立しないのだから。
主に社会を構成するのは個性的でも天才でも犯罪者でもない人間達だ。そして標準的な人間が多いからこそ社会は社会として成立し機能する。普通という言葉を嫌がる人間が(特に若者に)多いけれど普通よりも異常が良いのだろうか。普通こそが幸福になる確率が一番高いと思うのだけれど何が嫌なのだろう。