普通が素的

「個性が欲しい?もしかして個性というものが良いものだとでも思っているのかな?」


僕等はインプットとアウトプットを繰り返す。それは食物だったり情報だったり感情だったりと形態は多々在るけれど基本的行為としてインプットとアウトプットを繰り返し続けている。
当然ながらインプットされる物事とアウトプットされる物事は別物だ。アウトプットされる物事はインプットされた物事をベースにしているが僕等を通した時点で別物だ。食物や感情は言うの及ばず情報も別物になっている。
インプットされた情報を自分の中で思考や嗜好、感情や経験などのフィルターを通してアウトプットする。その時にアウトプットされる情報が食物のように消化されていようと未消化だろうとどちらにせよ別物になっている。例えばインプットされた情報に対して好悪の感情を持っていればアウトプットする時に好悪の感情も一緒に添付されている事だろうし、仮に好悪の感情を持っていなくてもアウトプット時の言葉の使い方や雰囲気、アウトプットの対象との関係などによって変容する。変容が昇華なのか劣化なのかは分からないけれどフィルターを通している時点で同じものでは在り得ない。
ここからは根拠も何も無い妄想に近い仮定の話になるがインプットとアウトプットを繰り返しているうちに僕等のフィルターは汚れてしまいアウトプットされる情報も濁ってしまうのではないだろうか。そして、それが先入観や偏見、固定観念などの姿で現れるのではないだろうか。
僕等は物事を知れば知る程に汚れてゆく。その汚れ方の違いが個性というものではないだろうか。そして汚れ方が他人と違えば違う程に個性的という事になっているのではないだろうか。無垢な存在という存在を僕は信じないけれど、仮に存在するとしたら恐らく個性は無い。だからといって個性が在れば、個性的であればある程に良いというわけでもないと思う。僕自身はどちらかというと個性というものは無い方が良いと思っているし際立って個性的という事はどうしようもない悲劇だと思っているのだから。
後、「僕等」と記したけれど同意出来ない人や反発する人は含まれていないものだと思って下さい。「僕」と記すよりも「僕等」と記した方が書き易かったというだけの理由なので。