似ているという事は違うという事で同じという事ではない

昨日、朝は不快な気分で目覚めさせられる程度に晴れていたのに正午くらいから雨。それも土砂降りの雨。滝のようにという形容がぴったりの雨。僕は天気予報を確認しないので知らなかったのだけれど、知人曰く神奈川の天気予報では大雨洪水注意報が出ていたらしい。天気予報を確認していた人は朝の時点では驚いただろう。大雨のはずが雲一つない晴天。雨の為の準備が無駄になったと思ったかもしれない。しかし(天気予報を)信じていたならば無駄にはならなかっただろう。信じる者は救われるらしいし。知らなかった僕は信じる事すら出来なかったけれど。
さて、本年度も後半に突入し結婚の流行も落ち着いた模様なので改めて自分の場合を考えてみると僕には結婚願望が無い。結婚したくないのかと問われれば「したくない」という程に積極的な意思ではなく「したいと思っていない」若しくは「したいと思う理由が無い」という消極的な思考での返答になるのだけれど、しかし結婚に関して躊躇する理由ならば在る。
僕は自分の子供が欲しくない。
僕は子供そのものが嫌いというわけではない。実際、親戚の子供等とは遊ぶ事も在るし可愛いと思わない事もないが僕自身の子供となると拒否したくなる。
僕は遺伝というものは在ると思っている。それは体質などの身体的なものだけではなく性質や嗜好などというようなものも(性質や嗜好などがそもそも身体の構成によって完全に決定されているものならば、それも含めて身体的なものと断言出来るが僕は知らないので分けている)。
進化が生物の宿命ならば子供は親と全く別の生物である事こそが生物としての優等性を示すものかもしれないし、事実、親と子の類似点は遺伝によるものよりも一緒に居る時間の長さによるものが大きいのだろうけれど、しかし遺伝によって一端にせよ親から受け継ぐものも在ると思っている。それが同世代同士の類似よりも少なく小さい類似だとしても、教育によって覆い隠し誤魔化せる程度のものだとしても、確実に一端は。
少し話が逸れるが僕は世代の違いは圧倒的だと思っている。世代の違いというものは環境の違いと言っても良いかもしれない。だから親と子の類似点よりも同じ世代に生きている人間同士の方が類似点が多く大きいと思っている。身体的特徴もだけれど、それ以上に性質や嗜好などが。
僕は自分の性質や体質を一端たりとも受け継いでほしくない。血は水よりも濃いというが僕の血は水よりも薄いものであってほしい。
だから子供が欲しくないという人が相手ならば結婚の可能性も在るかもしれない。とは言え僕が結婚出来る可能性そのものが限りなく零に近いだろうけれど。