至言

努力を行なう人間と行なわない人間が居る。彼等は何故に努力を行なうのだろう。若しくは何故に努力を行なわないのだろう。
僕は好きな事を行なう事を努力だとは思っていない。好きではない事や嫌いな事を行なう事を努力だと思っている。好きな事を行なうのは努力ではなく遊びだ。という前提で開始。
現実が一つの方程式で解ける程に単純だとは思っていないし物事を二元論で語る事は愚かな行為だと知り、更に「多分」と予め記す事で予防線を張り自己保身を忘れずに述べるならば「世界を許容出来ない」からだと思う。ここで言う世界とは現実でも事実でも問題は無い。
「世界の許容」が「出来ない」という不可能なのか「しない」という意思によるものなのかは分からない。個々人によって違うだろうし断言は出来ない。
しかし彼等は世界を許容出来ない。だから努力を行なう。それが目的達成という希望の為だろうとも不安解消という安定の為だろうとも。
不満を言いつつ努力をしない人間は不満で満足を埋められる人間だと思う。しかし不満で満足を埋められない人間は努力するのだろう。せざるを得ないだろう。
世界を自分に合わせるか。世界に自分を合わせるか。
前者は間違い無く努力をする人間だろう。だからといって後者が努力をしない人間だとは限らない。合わせる努力をする人間だって居る。勿論、努力したからといって希望するような結果に成るかどうかは分からない。しかし努力する人間は間違い無く現実を許容出来ない。だからこそ現実を変えようと努力する。
「人の想念こそは現実を変容させる賢者の石」という言葉が在る。人間の努力は現実を変容させる。努力とは現実を許容出来ない人間の現実対処法。それが人の想念。勿論、遊びで現実を変容させる人間も居るだろう。それも人の想念。
兎も角、努力の根源は現実を許容出来ない人間の意思に在るではなかろうか。