賢者のつもりの愚者

人間の人間たる理由の一つに想像力が在ると思うのだけれど、一口に想像力とは言っても幅が広い。多岐に渡る想像を行なう人間も居れば一つの緻密な想像を行なう人間も居る。それはどちらが優れているとか劣っているとか正しいとか間違っているとかの評価は意味が無い。例えば同じように物を切断する道具であっても鋏とナイフを比べて優劣を決める事は意味が無いし、同じ鋏だって右手用と左手用と両手用の優劣を比べる事に意味は無い。右手用には右手用の左手用には左手用の両手用には両手用の使用方法が在る。
けれど、それは切れるという前提が在っての事で切れない鋏は別問題。切れない鋏には切れない鋏なりの使用方法が勿論在る。とはいえ切れるという前提の在る鋏よりは幾分か使用方法と使用箇所が限られるだろう。
想像力の話に戻ると想像力の種類がどのようなものであれど適切な使用方法と使用箇所で使えば意味が在る。けれど想像力の欠如は使用方法と使用箇所が極々限られる。
「行なわなければ分からない」というような台詞を最近耳にしたけれど、行なわなければ分からないのは想像力か情報か或いは両方が欠如しているからかだろうとしか僕には思えない。火に近づければ紙は燃えるし水を掛ければ紙は濡れる。「行なわなければ分からない」と言った人間はそれすら想像不可能とでも言うのだろうか。情報が無いから想像不可能だと言うのならば情報収集を行なわないだけであって想像力以前に分からなくて当然で只の怠慢でしかない。情報が在れば想像可能と言うのならば「行なわなければ分からない」という台詞は成立しないし、情報が在っても想像不可能と言うのならば想像力の欠如という他ない。何れにせよ限られた資源である時間と労力を確認の為だけに使用するという無駄遣いは避けたい。


治りかけの時に春一番の真っ只中に行けばどうなるのか。僕に他の人間の事をとやかく言う資格は無い。