堕落して墜落

ジムなんぞに行ってはいるけれど僕には腕力も体力も無い。自慢でも自虐でもなく単純な事実として。自慢にも自虐にもならない単純な事実として。
そんな僕が力仕事を任じられた。適材適所という言葉の意味について懇々と語りたかったけれど全く効果が無い(どころか逆効果になる可能性が大きい)ので特に反論もせずに従事。そもそも僕は自身の適材たる能力を見極めておらず、それは同時に適所が分からないという事なので反論しようにも反論のしようがない。労働という枠組みの中では適材たる能力を所有していないのではないかとさえ思う。知人に言われた事も在るし自身でも労働する度に思うが僕はつくづく労働に向いていないと思う。けれど労働しなければ生活出来ないという事実が僕には存在している為に労働せざるを得ない。向き不向きに関わらず。
「労働は貴い」と思っている人間も存在しているけれど僕は労働が貴いとは寸分たりとも思っていない。必要か必要でないかの選択でしかないと思っている。僕は労働の必要が在るからこそ労働するけれど必要が無ければ労働しない。金銭的に大きな余裕が在り、行ないたい事が在るならば人間は労働しないと思うのは僕だけなのだろうか。


話は逸れるけれど「労働は貴い」と思っている人間は大抵「人間は苦労をすべきだ」と思ってもいる。人間は苦労した分だけ成長出来ると思っているのだろうけれど、苦労したからといって必ずしも人間が成長出来るとは限らない。苦労も過ぎれば精神を蝕み精神を歪ませる。そしてその度合いは人それぞれで客観的普遍的計測法なんて無い。だからこそ自分がした苦労を他人にもさせようとするし「僕の若い頃は大変な苦労をしたのだよ」なんて話になる。誰だって大なり小なり種類は違えども苦労している。それをあたかも自分だけが苦労しているような顔をして語るのは結局は自分の事しか見えておらず自分の事しか考えていない人間だろうと思う。けれど僕はそれが悪いとは思わない。自分の事すら考えない人間も居るのだから。
それにしても、人間は楽をする為に科学や宗教を発達させてきたのに楽をするなとはどういう事なのだろう。