失敗しない

ここ数日の間に幾人かの起業家の本やインタビューを読んだ。どれもこれも誰も彼も内容的には大した差異が在るわけでもなかったのだけれど一つだけ気になる事が在った。僕が読んだ中でだけだけれど殆んどの起業家が「多くの事に挑戦して失敗した方が良い」というような事を述べている。「失敗して学び成長すれば良い」と。
これを述べている起業家達の言う「失敗」が何を指し示しているのか僕には分からないけれど失敗して良いなどは僕には思えない。思う気も無い。
確かに失敗は多くの事を学ぶ機会と成り得る。学ぶか学ばないか学ぶべきか学ばないべきかは別にして。けれど失敗したという事は既に何かを失ったという事だ。それは信用だったり機会だったり物だったり。失敗した時に学べば失った物事が戻るかもしれない。更に良い物事が手に入るかもしれない。けれど戻らないかもしれない。もし失った物事が唯一無二の物事で絶対に必要なのに決定的に戻らないとなったら、その失敗は一つの物事の失敗であると同時に人生の失敗でもある。人生の失敗というのは幸福になれないという事。どれだけ金銭的余裕が在ろうとも国際的な地位が在ろうとも羨望を集める名誉が在ろうとも幸福にはなれない。金銭も地位も名誉も幸福に関係するけれど幸福そのものではない。
例え話として人間を殺しても虫を殺したと同程度にしか認識しない人間が居るとしてみる。そしてこの人間は殺人という行為そのものに罪悪感などを感じる事は無いが、殺人した事よって逮捕される事は何よりも嫌だと思っているとする。ある時、この人間は殺人をしようとした。一つ目の仮定として殺人に失敗したが露見しなかった場合。多分だけれど、この類が起業家達の言う失敗だと思う。二つ目の仮定として殺人に失敗して露見した、もしくは殺人は成功したが露見した場合。この場合、この人間は決定的に失敗した。露見しないように殺人行為を行なう事を失敗した。失敗して何よりも嫌だった逮捕される事になった。これは成長しようがしまいが取り戻せない。やり直す事も出来ない。起業家達はこの類の失敗には触れていない。
と思う。要は起業家達が言う「失敗」とはやり直せる程度の失敗の事であって絶対的に決定的にやり直せない「失敗」は含まれていないと思うという事。そもそも「失敗」して死んでしまったらやり直すも何も無い。死ななくとも「失敗」して幸福に成れないというのならば「失敗」などしたくはない。だから「失敗した方が良い」などは思えない。恐らく既に「失敗」していて幸福に成れないだろう僕だけれど、それでも未だに一応とはいえ幸福を目指しているのだから。