孤独が不安なのは理解出来ない事もないけれど

説教する人間も居るし文句を言う人間も居る。諭す人間も居るし否定する人間も居る。
けれど。
24歳というだけで誰もが若々しく元気でテンションが高かったら不気味だと思うのは僕だけなのだろうか。
僕のテンションは低いらしい。自身でも高くないとは思っている。けれど、それを悪いとか問題が在るとは全然思っていない。個々には個々の役割や流儀、方法や習性などが在り同一ではない。そんな事は一々記したりしなくとも誰だって知っている事だと思う。にも関わらず同一を望む。
24歳の皆が皆、24歳以下の全員が全員、若々しくて元気でテンションが高いと思っている人間は居ないと思うけれど、若々しくて元気でテンションが高くいなければならないと思っている人間や若々しくて元気でテンションが高い方が良いと思っている人間は居る。そのような人間と関わると疲れてしまう。
そのような人間は例えば全ての馬が人参好きと思っている人間と何ら変わりない。それが悪いとは言わないし思わない。無知は罪ではない。勘違いも悪ではない。しかし盲信的と表現すべきか絶対的と表現すべきかは兎も角、自分が思う事は正しいと信じ込む事は問題が無いとは言えない。そして自分が思う事は正しいのだから他人も同じようにするべきだと周囲に押し付け巻き込む事は問題が在る。信じる事も信じない事も無関心で居る事も個々人の選択次第なのだから好きなように選択すれば良いと思うけれど、信じる事も信じない事も無関心で居る事も個々人独りで行い他人に押し付けるべきではない。自分に好きな物事が在るのならば他人にも好きな物事が在るのだろうし、自分に信じる対象が在るのならば他人にも信じる対象が在るのだろうし、自分に正義が在るのならば他人にも正義が在るのだろうから。
自分独りでは不安だからといって他人を巻き込む事は止めてほしい。
僕が若々しくなく元気でなくテンションが低いのは僕の役割や流儀、方法や習性などに基づくものであり気に入らないならば気に入らないで気に入らないままで問題無いので関わらなければ良いと思うのだけれど何故に変化させようとしてまで関わろうとするのか分からない。変化させようとしてもしなくても変化する時には変化するし変化しようとしてもしなくても変化しない時には変化しないし、そもそも変化した物事は既に別の物事なのではなかろうか。
「腐っても鯛は鯛」と言うけれど「腐った鯛」は「鯛」ではなく「腐った鯛」でしかない。