冴えない答と模範解答


誰の歌なのかは知らないが「肌の色や瞳の色で何が分かるというのだろう」というような意味合いの歌詞が在る。これについて思う事を記せ。


「肌の色や瞳の色で何が分かるというのだろう」というような歌詞。恐らく逆接否定用法として「いや、何も分からない」と続くのだろう。
けれど本当に何も分からないと思っているのだろうか。
肌の色や瞳の色が分かれば人種を想像出来る。人種が想像出来れば生活も想像出来る。生活が想像出来るならば人格も想像出来る。人格が想像出来れば自分との関係も想像出来る。
「分かる」という言葉の意味にもよるだろうが理解するという言葉を同義で捉えても殆んど問題は無いだろう。理解。人間に他人の理解は難しく何年も何十年も友人関係を続けたとしても何もかもを理解する事は不可能だ。理解しているつもりでも理解と想像を一緒にしている場合、実際に理解しているのではなく相手の言動や行動から自分で相手を想像しているにすぎない場合も多々在る。そもそも完全に他人を理解したなどというのは傲慢過ぎるし完全に理解されたというのは依存でしかない。実際のところ、相手の一割でも理解出来たら素晴らしい。
それでも大きく間違っているわけでなければ想像でも理解でも人間関係に支障は無い。極論すれば理解出来なくとも想像出来れば問題は無い。
しかし想像するには相手が人間だと思っていなければ出来ない。「肌の色や瞳の色で」とは外見の話だろうが、例えば外見が人間と同じような大きさの昆虫が居るとして昆虫の事を理解する事は不可能だろうし想像する事も難しいだろう。相手を想像するというのは相手が自分と同じ人間だという思い込みが在ってこそ成立するからだ。
少なくとも「肌の色や瞳の色」が分かるれば想像は出来る。想像出来るからこそ関係を構築しようかどうしようかという選択肢が発生する。そうして関係を構築した後に初めて理解が可能になる。つまり「肌の色や瞳の色」が分かるという事は相手を理解する一歩目となる場合も在るという事。「肌の色や瞳の色」だけでは理解は不可能だろうけれど先に続く可能性が在り、逆に「肌の色や瞳の色」すら分からなかったら永遠に理解は不可能。


模範解答
「肌の色や瞳の色で何が分かるというのだろう」というような意味合いの歌詞。恐らく逆接否定用法として「いや、何も分からない」と続くのだろう。
けれど本当に何も分からないと思っているのだろうか。
「肌の色や瞳の色」が分かれば「肌の色や瞳の色」が分かるはずなのだけれど、「肌の色や瞳の色」が分かっても「肌の色や瞳の色」が分からない人が存在するのだろうか。それこそ僕には分からない。まるで謎々。勿論、謎々ではないので答は「肌の色や瞳の色」が分かれば「肌の色や瞳の色」が分かる。