適当が適度

以下の検索で此処に来た人が心配になりそうだった。余計なお世話だけど。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=UTF-8&c2coff=1&q=%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%82%B0%E3%82%A5%E3%80%80%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&lr=

移ろわぬものなど一つとして無く全ては移ろいゆくものだと思う。例えば存在だったり認識だったり、と。
僕自身もまた然り。
はてなダイアリ」はブログ日記に分類される物らしいのだけど、僕はブログに参加していない。正確にはブログ参加している形ながらも僕の目的がブログに無い。
一つの対象に関して思った事や考えた事でも良いのだけど、僕は自身がその時に思考した直接の内容の方がいつか読むかもしれない僕自身にとって分かり易いだろうという意図でもって記している。
すると僕が此処で記す必要は全く無い。メモ帳にでも記していれば良い。
という事になるのでこの仮説は成立しない。
さて、僕は如何なる理由によって此処に記しているのか。
全ての物事に意味を見出そうとするのは好ましくない。しかし自分の行なっている事が無意味で無いと、意味が在ると、思いたい。その証明をする為に意味を見出そうとする。それこそが無意味で在ろうとも。仮初で在ろうとも。それも移ろいゆくものだと思っていても。
さりとて証明されてしまえば証明内容自体に縛られる可能性も在る。これは不自由。
さりとて仮説すら無ければ完全過ぎる自由が故に不自由。これも不自由。
結局は曖昧なまま。