遠過ぎず近過ぎず

誰だって生きている限りは何らかの影響を受け、また同時に与えている。与える事のみに関して言えば死んでからでも影響を与える事が在る。一度でも存在すれば周囲に影響を与えないなんて事は無い。範囲の大きさはそれぞれだろうけれど。それ自体に問題は無いだろうし当然の事だろう。
でも心酔というのはどうなのだろう。僕は心酔を対象を盲目的に信用し積極的に受け入れる事だと思う。
例えば物語。例えば音楽。例えば絵画。例えば数字。例えば哲学。例えば科学。対象は何でも良いがその対象を、気に入ったから、自分には無いから、共感出来るから、理解出来るから、などの理由で無条件に物事を受け入れる。それには問題が在ると思う。漠然とだけれど。
何らかの影響を契機として物事を考えるのが重要なのではないだろうか。考える一番簡単な方法は疑う事だ。対象を疑い、問題点を挙げ、代案を作る。多分、これが一番簡単な考える方法。
しかし僕は物事を考えていなければならないとは思っていない。考えずに済むのなら考えなくても良いと思っている。考えずに済むのに無理をして考える必要は無い。
努力をする必要は在るかもしれないけれど無理をする必要は無いと思っているから。
考えるのは考えなければならない人間が考えれば良い。ここで言う考えなければならない人間とは職業などの状況に置かれた人間の事ではない。そういう性質の持ち主の事で例えば曖昧では不安定な人間や感覚では理解出来ない人間など。そういう人間が考えれば良い。良い、と言うよりもそういう人間は考えずにはいられない。
何事にも例外が在るのは前提として当然の事なので厳密には異なるが、おおまかに分けて考える人間には二種類居る。意識的に考える人間と無意識的に考える人間の二種類。意識的に考える人間は本人の意思、嗜好、趣味によって考える。無意識的に考える人間は性質によって考える。後者は考えなければ不安で居られないからだ。
対象について常に考えた方が良いとは思わない。対象を常に疑った方が良いとも思わない。しかし対象と自分の距離感は大事にした方が良いと思う。対象は対象でしかなく、自分は自分でしかないのだから。