不可能という存在の可能性と確率

僕は不可能の存在を信じている。それは空を飛べるとか水中で生活出来るとか明らかに人間として間違っている(もしくは人間という分類に当てはまらない)不可能ではなくて、他の人間には可能でも僕には不可能だという不可能の存在の事。僕には不可能な事柄が多く存在しているが僕はそれを悲しいとも悔しいとも思わない。完全に思わないというのは勿論嘘でしかなく多少は思わなくもないが、しかしそれは諦めきれないものでもない。僕は僕に不可能な事は不可能な事と自認するだけだ。
だが弟は不可能な事の存在を信じていない。彼は口癖のように「方法なんて幾らでも在る。要はやり方だ」と言う。僕と弟の認識の不一致なのは明らかで、彼は目的を果たす手段の事を述べているようなのだが、しかしそれですら不可能は存在している。達成不可能な目的というのが在る。例えば僕が一生自分の足で歩く事が出来ず車椅子生活を余儀なくされているとする。Aという場所に向かって進むだけならば可能だろうが、僕が自分の足でAという場所に向かって歩きたいと望んでもそれは絶対に不可能だ。弟の言う「方法なんて幾らでも在る。要はやり方だ」というのは達成する事が出来る目的が前提となって話がされているに過ぎず、そもそも達成不可能な目的は話に加えられていない。確かにある目的を達成する手段が一つしかないとは限らない。が、それ以前の段階で目的が達成可能か不可能かの判断が必要となる。そんな判断が必要という事は不可能が存在している証明に他ならない。可能も不可能も確率次第かもしれないけど。
「この世に絶対は無い」なんて言葉が在るらしいけれど、それすらも絶対ではないのだろうから絶対は在るかもしれない。物事は例外だらけだけど。そして例外だらけという事は物事の基準となるものは実は無くて、在るように見えたり感じたりするのは思い込みによる幻想でしかないのだろうけど、それでも基となるものが欲しくて幻想を信じたりする。