僕が正義を信じるのではない。僕が信じるものが正義なのだ。

僕は純粋な正義や悪の概念の存在を信じていない。噛み砕いて言うならこの世(界)には絶対的な善も悪も無いと思っている。この世界が単純な物質でのみ構成されていて、それ以外には何も無いという事ではない。それぞれに意味や理由などが存在したりするだろうけれど、しかし意味や理由などが一面的でないように善悪の概念も一面的ではない。ある側面から観測したら正しい事だと思えても違う他の側面から観測したら悪い事だと思える状況などは頻繁に存在している。善や正義は個々の人間がそれぞれ信じるものだったり正しいと思う何事かを善や正義だと思うだけで、何事かがそれ自体で善や正義だという事はない。無茶を承知で簡単に分けるなら、善は自分が信じるもの(心地好いもの、気持ち良いもの)で悪は自分が信じないもの(心地好くないもの、気持ち悪いもの)という事も出来る。
そして善はそれを主張した人達が証明しなければならないが、悪は証明する必要がない。それは善や悪が何かという事に関係するのだけど、これはもう単純に支持する人数が多い方の主張が正しく、支持する人数の少ない方の主張が悪という多数決でしかない。集団で生活する生物ならば当然とも言えるのかもしれない。釈然としないけど。
いつかこれを読むかもしれない僕の為に簡単な例え話。ある場所に10人の人間が居るとする。そこで議論が行なわれている。議論内容は何でも良い。10人のうち7人がAにしようと言い3人がBにしようと言う。するとこの場所ではAは正しい事でBは間違っている事という認識が当然となる。ひどければBは悪い事になる可能性も在るし、それを主張した3人は悪人と認定されるかもしれない。
10人という少人数だと実感し難いかもしれないが実際には遥かに人間の数は多く、話し合って最善策を模索しているような時間も労力も費やす事は出来ない。だからこそ単純で分かり易く便利な多数決というシステムによって物事を決定する事が多い。それだけに弊害が多いけれど、それは別の話。そして順番が逆になってしまったが何故に正義に証明する必要が在り悪に証明する必要がないのか。これは正義はその正義を信じる人達が主張するものだけど悪はその悪を信じる人達が主張するものではなく、正義を主張する人たちによって悪と主張されるものだからだ。主張するからには証明しなければならない。何故なら主張が向けられた対象は間違いなく内(主張する側)ではなく外(主張される側)であり、外を納得させるには証明しなければならない。でなければ外は納得しない。だから正義は証明する必要が在るが悪は証明する必要が無い。ただ「患者は病気の時だけ医者を必要とするが、医者は常に患者を必要とする」という西洋の諺(だったかな?)が在るらしいけれど、「悪は正義を必要としないが、正義は常に悪を必要とする」かどうかは知らない。何も全てを正義と悪だけの二進法にする事はない(それが簡単で分かり易いのは理解出来るけど)し、正義ではないけれど悪でもないという事は多々存在する。というかそれが一番多いんじゃないのかな。
それにしても思いつきとはいえ今日の題名はあんまり。余りにもあんまり過ぎるからこのままにしよう。