記憶も忘却も過ぎれば及ばない

軽くお酒を飲みながら友人+知人と食事。「+知人」ではなく纏めて「友人」でも良いのではないかと思わない事もないけれど、「+知人」に違和感を感じない事もないけれど、事実を正確に記そうとするとどうしても「+知人」になる。事実を正確に記す事が重要かどうかの論はさて置くとして、そのような事実が在った。
数年振りに偶然に在った知人と成り行きから友人も巻き込んでの食事。僕を含めて全員が同じ場所で関係していたのだから当然と言えば当然なのかもしれないけれど現在の話よりも当時の話が多い。
そういう場でこそ遺憾無く発揮される僕の記憶力。関わっていたはずの人名も遭遇したはずの出来事も殆んど覚えてない。覚えていない人間の話や覚えていない出来事の話が話題になっても懐かしいどころか不思議で仕方がない。感想も「そんな事も在ったな」ではなく「そんな事が在ったのか」。一体全体、僕は本当に関わっていたのだろうかと疑いたくなる。けれど、恐らくは今日の出来事も時間が経てば覚えていない。何時の日にか今日の事を聞いた時に感想もきっと「そんな事が在ったのか」。覚えていない事が日常茶飯事になっていなければ僕は僕の人生を疑うだろう。


そんな日常茶飯事も嫌だけれど。