的確な日本語表現を

何と表現しようか迷っている。
電車に乗り座席の前に立っていた。普通の事だと思う。僕の前の座席の隣には男性が座っていた。これも普通だと思う。その男性の前(つまり僕の隣)には男性の知人であろう女性が立っていた。これにも異常は無いと思う。そして電車が駅に到着し僕の前に座っていた人間が立ち上がり電車を降りた。と、僕の横に立っていたはずの女性が即座に座った。
異常在り。
女性が何処の何様だか僕は知らないし知りたくもないが何様であろうと公共交通機関の利用マナーも知らないのか。空いたのは僕の前の座席であって女性の前の座席ではない。隣に知人の男性が座っているからといって僕の前の座席にこの女性が座る理由にはならない。理解不可能な精神構造。
余談だけれど僕は座席や列の割り込みを止むを得ないものと思っている。楽をしたがるのは人間の普遍的な習性で、だからこそ科学はここまで発達したとも言える。僕が嫌いなのはそういう事を行なう人間程に自分が行なわれた時に被害者意識を振り撒き散らす事に在る。勿論、それが人間全員に当てはまるとは言わないけれど大抵の人間に当てはまる。何かを行なうならば何かを行なわれる事を覚悟するのは必然のはずなのに、何故にそれを理解していないのか不思議でならない。只、何かを行なわなくても何かを行われる事は在るので、何かを行なう行なわないに関わらず何かを行なわれる事は覚悟していなければ対処不可能となる。
話が逸れたが続き。
僕は割り込みは止むを得ないと思っているし座りたい程に身体の限界でもなかったので変わらず立っていた。そして次の駅に到着した時に端の座席に座っていた人間が降りたと思ったら二人揃って端へ移動。
再び異常在り。
車内は座席が埋まる程には混雑しているというのに何をしているのだろう、この二人は。何故か憐憫の情が湧きそうになった。
日本語ではこういうような人間を何と表現するのか迷っている。


僕の方法論として構築する事は不可能だけれど削除する事は可能(例えば『〜という目標を持つ』とは思えないけれど『〜という目標は持たない』とは思える)なので、僕はこのような人間にはなりたくないしなるべきではないと思った。