救われない

「愛は地球を救う」なんて簡単に言うけれど何故に愛で地球が救われると言えるのだろう。過去に一度だって救われた事はないというのに。
確かに過去に一度も無いからといって未来においても無いとは言えない。言えないけれど一度も無いという事から確率は低いと予想される。
では確率を上げる為に何か行なわれているのかというと特別に何も行なわれていない。仮に愛は地球を救うのかもしれないけれど、救おうとしなければ救われるかもしれない事も救われる事は無い。
そして愛で地球が救われるならば憎しみでも救われるはずだ。どちらも対象への関心から発生する感情なのだから。
愛故の殺意は存在する。憎しみ故の破壊も存在する。愛や憎しみそのものに問題が在るのだろうか。それとも愛の方法や憎しみの手段に問題が在るのだろうか。僕には分からない。
分からないといえば僕には愛や憎しみという感情もよく分からない。好きや嫌いならば分からない事もないのだけれど。
そもそも地球は救われたいのだろうか。救われたいと思っていないのならば地球を救おうとする愛は傲慢だと思う。いや、傲慢なのは愛ではなく愛を理由にする人間なのかもしれない。
もしかして救われたいのは地球ではなく人間なのではなかろうか。赦してほしい、認めてほしい、救ってほしい、と思っているのは人間なのではなかろうか。
人類全体の事と個人の事柄を混同する程に愚かにはなりたくないので、という前置きをして極々個人的な僕の事。
僕は赦してほしいとも救ってほしいとも思っていない。無意識的には分からないけれど少なくとも意識的には思っていない。
けれど認められたいとは思っていない事もない。万人に認められたいとは思わないだろうけれど僕が認められたいと思う人間には認められたいと思っているだろう。
認められたい、そう思うと同時に僕を認める人間を心配しそうになる。僕如きを認めるなんて大丈夫なのだろうか、と。
僕如きに心配されるなんて心外だろうし認める認めないは相手次第で僕の関知する事ではないだろうから心配しないようにするけれど。
結局、愛や憎しみという感情を理解していない僕には愛が地球や人間を救うのかどうかなんて分からない。けれど現状のままでは救われないだろうという程度の事ならば僕にも予想出来ない事もない。