人間は考えなければならない葦ではない

僕の友人に面白い人間が居る。面白いといっても愉快という意味ではなく興味深いという意味で。物事の捉え方の軸が僕とは違い、しかし只単に違うだけならば面白いとまでは思わないが、幼稚な部分と老獪な部分の差が大きく幾ら存在というものが複合要素で成立するものだとしても乖離し過ぎているような気がして、話を聞くと良くも悪くも刺激を受ける事が多い。
この友人は僕と同い年なので今年で24歳。24歳といえば世間からの評価が中途半端な年齢で「社会に出た立派な大人」や「社会ではまだまだ若い」など大人扱いされたり未熟扱いされたりと他人からの評価をとても気にする人間は気になる時期かもしれない。
そういった中途半端な評価をされ続けたからか、それとも僕には想像も出来ないような全く別の理由からかは知らないが友人が「僕は最近、そうだね、ここ数ヶ月前までは考えるという行為をしなかったよ。した事がなかった。どんな物事も只の反射行動だった。鏡が物事を映すように反射しているだけだった。最近、ようやく考えるという事をし始めたよ」と言った。
言っている意味が分からない事はない。程度の差は在れども僕もそういう点は在る。日常生活をしていて考えず反射的に反応として行なっている行動は幾つも在る。それは習慣と呼ぶべきなのかもしれないし日課と呼ぶべきなのかもしれないが、しかし全ての物事に対して考えずには居られない。考えなければならない事も考えたい事も考えてしまう事も在る。
全てを考えないわけでも全てを考えるわけでもない。僕の時間と労力は有限なのだから全ては不可能だけれど、だからと言って全てが不可能という事ではない。意識的に選んだ物事か無意識的に選んだ物事か偶々気になった事か理由は分からないが、それでも幾つかの物事を考える対象にしている。なっている、かもしれないけれど。
人間は自分が思う事は他人も同じように思うと思いがちだし自分が考える事は他人も同じように考えると考えがちだ。僕も自身がそう考えているからと友人までも同じだと考えていたようで驚いた。驚いただけではなく今まで以上に考えているからそう考えているのではないかとも考えている。考えているから全面的には信じていない。言葉通りに友人が全く考えていなかったのか、それとも今まで以上に考えるようになったから今までが全く考えていなかったと考えてしまったのか事実は分からない。分からないが少なくとも今まで以上には考えるようになったのだろう。
僕は考える事自体が良い事だとは全然考えていなくて、考える必要が無ければ考える必要は無いと考えるし考えたくなければ考えなくても良いと考えている。考える必要が在るならば考えなければならないし考えたければ考えるのだから。「下手な考え休むに似たり」という言葉が在るようだけれど下手な考えは害悪でしかない。
友人の考えが害悪になるかならないかは分からない。今まで以上に面白くなれば良いと思うだけ。