尽言 

考えている事を全て言い尽くす事は不可能ではないかもしれないが、思っている事を全て言い尽くす事は不可能だと思う。
思考を言語化するのはそんなに難しい事ではない。とも言い切れないかもしれないけれど、それは決して不可能という程に難易度が高い事ではない。物事を思考する時は言語を使用するからだ。これは人間が言葉を獲得したからではない。文字を獲得したからだ。音である言葉ではなく形である文字を獲得したからこその結果(言葉と文字の辞書的意味を調べたわけではないから僕の極個人的な認識になるが「言葉」という言葉は「話し言葉」と「書き言葉」と分ける事が在るが単純に「言葉」とした時には「話し言葉」と同じような認識をしている)。「物事を思考する時は言語を使用する」とは「物事を思考する時は文字を使用する」と言い換えても問題無い。
話が逸れた。だからと言って物事を思考する時に絵や音で思考する人間は存在しない。とは言えない。絵や音で思考する人間も存在するだろう。しかしそれは文字を知らない人間だけだ。僕の現在状況を基準として話を進めるから限定場所として例えば現在の日本。現在の日本に生きている人間の殆んどは文字を獲得している。だから物事を思考する時は文字だし、だから思考を言語化する事は難しくない。
難しいのは感覚である感情を言語化する事だ。感情は感覚で認識し思考は文字で認識する。
僕も含めた人間が他者に何かを伝えようとする時にはどうしても共通認識の存在する物を使用するしか方法が無い。言語は共通認識の為の道具として誕生した。だからそれで思考した事を他者に伝える事はさほど難しい事ではない。言語そのものに或る程度の幅が在るのだから完璧という事は不可能かもしれないが近い事は伝えられる。
ところが感覚は共通認識の為の道具が存在しない。しかし感覚を言語化した時の幅は言語の幅なんて問題でなくなってしまう程に幅が在る。在り過ぎる。話し手の言語感覚に大きく左右されるのだから。
だから感情は伝え難い。感情を伝える事は思考を伝える事よりも遥かに難易度が高い。喜怒哀楽なんていう言葉が在るけれど人間の感情はそれしかないわけではないし、それだってどれもが独立して存在している場合だけではない。例えば喜と哀を同時に感じる場合だって在るだろうし、例えば怒と楽を同時に感じる場合だって在るだろう。それぞれの状況によってその割合だって変わってくるだろう。少なくとも僕はそれらを上手に言語化して伝える方法を知らないし上手に言語化して伝えられた経験は無い。精々が極々単純化して「好き」とか「嬉しい」とか程度にしか表現出来ない。
例えば「好き」という感情の場合、「100%好き」という場合は例外と言っても問題無いくらいに少なくて大抵は「60%好きで30%興味が無く10%嫌い」などだ。そう思っていても僕は結局のところ伝え易さを優先して「好き」で一括りしてしまうのだけれど。
そして、それを分かっていても僕は自身の好悪や喜怒哀楽の感情を主題として書き連ねている。僕はこの方法以外に方法を知らないのだから。