インスタント・エモーション

本日の日記の前に
警告開始
(人生に余裕が在れば機械での合成音的女性の声を想像して下さい。雰囲気が出るかもしれません。雰囲気が要らないという方は必要在りませんし、想像しなくても何ら問題は在りません。しかし、もし人生に余裕が無いという理由ならば此処の文章を読んでいる場合では無いと思います)

警告
本日はようこそお越し下さいました。
本日の内容は昨晩に此処の文章作成者(以下、作成者)が
愚かにも保存しなかった為に消えてしまった文章を
余り意味の感じられない努力によって再現しようとして失敗したものです。
昨日の失われた文章を作成した時には2時間かかった代物を
半分以下の時間で作成しようとした結果なのですから当然の事です。
作成者はどうかしている人格の持ち主かもしれません。
内容自体は「同情」を行なうのも行なわれるのも嫌いな作成者の視点から、
「嫌い」という感情を主軸に書かれていますので
感情的な文章を嫌悪する方や苦手とする方には合わないと考えます。
そして「同情するのが好き」や「同情の何が悪い」というような
意見の持ち主の方にも合わないと考えます。
更に作成者の人格に偏りが在りまして、
その作成者が作成しました本日の内容にも同様に偏りが在りますので
公正な文章を好む方にも合わないと考えます。
よって上記に当てはまる方はお読みにならない事をお薦めします。
また作成者如きの文章で不快になる可能性が在る方、時間の無駄を嫌われる方にも
お読みにならない事をお薦めします。
簡潔に述べるならば誰もがお読みにならない事をお薦めします。
限り在る人生の時間の浪費はお控えになる方が良いと考えます。
そんな文章を此処に書く作成者は
やはりどうかしている人格の持ち主かもしれません。
作成者の言い訳は
「現在の思考の記録」
ですが此処に書く理由にはなっていませんから信用してはなりません。
やはり作成者の人格はどうかしているようです。
さて万が一それでもお読みになる奇特な方、
どのような御気分になりましても御自身の御自由ですが作成者の
「警告は出した。その後の判断と行動の自由と責任は僕のものではないよ」
という最低な言葉により、
本日の内容をお読みになった場合の御気分につきましては
作成者に一切の責任が無いものとさせて頂きます。
誠に勝手な話で申し訳ありませんが御了承下さい。
このように責任を人に押し付ける作成者は間違い無くどうかしています。
但し、読まれた場合の御意見・御感想は下のコメントの箇所から御自由に。
警告は以上です。
最終的な判断と行動は御自身の意思で後悔の無いようになさって下さい。
最後になりましたが、はてな運営者様。
内容に問題が在ればいつでも消去して下さい。

自由と責任、そして幸運を。
不自由で無責任な作成者にだけは不運を。

警告終了。


本日の日記開始


僕の精神は病んでいるのかもしれない。という前置きをして。
非健常者が努力・苦労して幸福になるという物語が好きではない。というか、気に入らない。明言すれば嫌いだ。明言する必要性には疑問が在るが。
何が気に入らないって「非健常者が努力・苦労して幸福になるという物語」を観て自分が努力した気になって満足しているだけの非健常者と、非健常者が努力している物語を観て非健常者を理解した気になっている健常者が気に入らない。
前者は自分が努力しなければならない事を失念し物語りから何一つ学んでおらずに情けない。後者は弱者や病人などに同情して満足している健常者と同じくらいに気持ち悪い。
苦労なんて大なり小なり誰しもがしている、と思う。狭い限られた範囲の中で、では在るが僕の知った人達はそうだった。僕の知らないところでは苦労した事が無い人が居るのかもしれないが。
そして、これには健常者と非健常者の間に種類の差は在れど程度の差は無いと考える。健常者同士の間でも種類に差は在るのだから。
得てして人間は自分のみが、とまでは言わなくても自分が一番苦労していると考えがちだが決してそんな事は無い。誰だって多少の苦労はしている。種類の違いと耐久力の違いが在るだけだ。
僕は努力そのものには価値が在ると思う。例え、それが結果として報われなかったとしても。努力が出来るというだけで価値が在ると思う。
純粋に努力を描きたいならば健常者が努力して幸福になる物語を描けば良い。その方が健常者も感情移入し易いだろうし、非健常者という色眼鏡が無い分だけ努力・苦労そのものを描けるだろう。物語製作者にとっては大変かもしれないが。
非健常者が主役の物語は分かり易い感動を簡単に演出する事が出来る便利な手法、としか僕には思えない。
「非健常者が努力・苦労して幸福になるという物語」で「感動した」などと言う人間は大抵の場合、心の中では非健常者を差別している。そして、そういう人間に限って「差別は良くない」などと言う。心底、差別に関係していない人間はそんな事を考えもしない。何かの行動を考えるのはその行動を行なっている・行なっていた人間か若しくは行なわれている・行なわれていた人間だからだ。
「区別」と言うかもしれない。「差別」と「区別」の違いは多々の意見が在るだろうが、どちらも「普通ではない」と定義している事には何ら変わりは無い。同情される人間の中には同情されたくて同情されるようにしている人間も居る。同情する人間の中には同情したくて同情しているようにしている人間も居る。そういう人間同士が関わりあって相互の利益が満たされる状況の場合は問題無い。
でも同情されたくない人間はどうなる。大抵の場合はどうにもならない。大抵は同情される。「同情されたくない」というのは「普通」で在りたいという事だ。「同情されたくない人間」からすれば「差別」も「区別」も一緒だ。結局は「普通ではない」と定義されているのだから。それでも同情されたくない非健常者が同情されない為に健常者と同じような生活をする場合、どれほどの努力が必要か。しかも努力している姿を認識されたら同情されるので水面下で行なわなければならない。それ故に同情されない為の努力というものはどんなに簡単に考えても通常の努力よりも遥かに労力が必要になる。
非健常者が健常者と同じ程度の幸福を手に入れるのに健常者以上の努力をしなければならない。そんな事は当然だ。当然だが、それが問題で在り難しい。
だからと言って、その事が美談の材料にされてたまるか。非健常者が演出の道具にされてたまるか。
ふざけるな。
健常者に非健常者の気持ちは理解出来ない。非健常者と健常者の間には断絶が在る。予測も推測も憶測も不可能。仮定も推定も想定も無理。
極論すれば他人には他人の気持ちが理解出来ない。それでも境遇や環境などが似ていれば多少の共感は在るだろう。しかし非健常者と健常者の間にはどうしようもない断絶が在る。それ自体は当然だ。
気に入らないのは断絶を乗り越えた気になっている人間だ。
断絶を気にしない事も気にする事も問題無い。どちらも一長一短が在り、相手の人間や状況によって変わる。問題は断絶を乗り越えたと思っている人間だ。


僕が「症例A(多島斗志之)」を気に入らなかった理由。
そして最近話題になっている本を読まない理由。
は、こんなところか。


本日の日記終了