精神的負担処理方法の仮説

一昨日(流れない涙)と昨日(特技)の続き。のようなもの。合の子。みたいなもの。
精神的負担の解消を涙を流す事によっては行なえない僕は睡眠によって行なっているのではないだろうか、という仮説。根拠は無く突飛に飛躍し過ぎて仮説にすらなっていないような気もするけれど、それは無視して。
望むと望まざると精神的負担は毎日蓄積されていく。大なり小なり多かれ少なかれ良かれ悪しかれ人それぞれに種々様々に。精神的負担(もしくは精神的負荷と呼んでも良いもの)を自己の行動力に変えてゆける人間でも一部は残留し蓄積していると思う。日々涙を流さなくてはならない程に精神的負担が蓄積される人間はそれほど多くは無く(そんな人間ばかりなら社会という概念そのものが成立しないはず)、大抵の人間はそれを同時に日々の生活の中で解消・軽減しながら生きているのだろう。しかし突発的、あるいは自覚的、もしくは偶然に精神的負担が許容量の限界を超える事は誰にでも在ると思う。その時に人間は様々な方法で精神的負担を解消・軽減しようとする事だろう。中でも特に涙を流すという行為は瞬間的にある程度の効果が発揮されるのだと思う。効果も勿論の事だが、ここで特に重要なのはその効果の発揮される速度。涙を流すという行為によって発揮される効果の速度はとても早い。偏見の可能性が高いがこの涙を流す事の効果は男性よりも女性の方が効果が早く高いような気がする。(一概には言えないが僕個人の主観的概念から判断する)男性と女性の性質の差かもしれないけれど。
さて、ほとんど涙を流せない僕は精神的負担が許容量の限界を超えた事態に置かれた時、如何に解消・軽減するか。恐らく眠る事で処理しているのではないだろうか。恐らくなどと記してはいながら根拠は無いけれどそんな感覚(勘)が在る。僕にとって眠るとは体や心を休ませるだけでなく現実からの精神的逃避手段も兼ねている。ような気がする。当然、涙を流す程には速度も効果も無いだろうけど。
思う、とか、気がする、とか、だろう、とか憶測的表現ばかりになるが感覚に基づく話なので致し方ない。感覚を言語化しようとする行為自体に無理が在るなど今更。事実は知らない。