流れない涙

僕を(物理的意味ではなく)構成する要素に余り涙を流さないというのが在る。厳密には自分の事柄ではほとんど涙を流せない。流さないのではなく流せない。小説などの物語では場面によって涙を流す事も稀に在る。が、自分の事柄で涙を流したのは(頼りない記憶力であるが)覚えている限りにおいて祖母が亡くなった時だけだ。それ以外では涙を流した記憶は無い。(声を上げて)泣いた過去は記憶さえしていない。
僕の記憶力はとても頼れたものではなく信頼なんて出来やしない代物。思い出せば後悔するような事や逃げ出したくなるような事しか覚えていない。しかし、そんな場面ですら僕は涙を流してはいなかった。そんな時は激しい自己嫌悪や自己憎悪に陥り只々じっとしている。最善どころか次善にすら届かず最悪になった結末を後悔して、同時に何が悪かったのか何処に問題が在ったのか思考し続けている。問題は何時だって過程に在る。一つの結果も次への過程でしかない。とは考えていても、最悪の結果を得た後に次を考えられる程に僕には余裕は無い。その一つに囚われてしまう。そんな時でさえ僕は涙を流せない。膨大な喪失感を所持し激しい悲哀に満ちている。そんな時ですら僕は涙を流せない。
詳しく覚えていないが一説には泣く(もしくは涙を流す)という行為は精神的負担を解消・軽減する効果が在ると聞いた事が在る。悲しい事や嬉しい事が在った時に人間は泣く(涙を流す)。それは感情の容量を越えた分(この部分が良くも悪くも精神的負担として沈殿し残留するのだと思う)を泣く事によって発散し自我を正常な状態に戻し維持しようとしているのではないだろうか。
だとしたら。もしそうなら僕は感情の容量が大きくて溢れる事が滅多にないか、感情の容量は適度だが溢れる程に感情豊かでないか、溢れているが上手に処理出来ずに精神的負担を貯め続けている、のいずれかだろう。いずれか知らないが最後の仮説の場合、いつ精神的負担で感情が崩壊してもおかしくはない事になる。ので最後の仮説以外が好ましい。されど涙を流したくても流れない性質の僕は、それ以外の方法で精神的負担を解消しなければ遠からずに最後の仮説を実践するのだろう。