幸福論

今日から飽きるまで題名を付けてみる。初めての題名は幸福論。ありがちだけど。ところで「幸福論」だけでなく「〜論」という言葉を頻繁という程ではなくてもわりと耳にするのだが、これは「理論」と「論理」のどちらを指し示しているのか。理論と論理の違いは以下。

理論
個々ばらばらの事柄を法則的・統一的に説明する為、また認識を発展させる為に、筋道をつけて組み立てたもの
論理
議論の筋道・筋立て。比喩的に物事の法則的な繋がり。ちなみに論理学とは正しい判断や認識に達する為の思考の進め方の形式を明らかにしようとする学問

理論が分類に近く論理が方法に近いという感覚で良いのかな。感覚でだから曖昧だけれど。そのうえ近い感じがするとはいえ似て非なるものは非なるもの。結局違うものなんだけど。
さておいて今日の題名の「幸福論」。「幸福について」でも「幸福の成り方」でも「幸福への道」でも何でも良かったのだけど題名っぽいのにしたかったので「幸福論」に。後、こんな事を一々記述するのは日記だから当然の事過ぎて嫌なのだが、あくまで「僕が考える」というのが前提。だから今日の題名を正確に記するなら「僕の考える幸福論」となる。しかし何でも正確に記せば良いとは思わない。あえて表現しない事で生じるものも在ると思うし。で、僕に想像できない幸福の内容、僕に考えられない幸福になる方法、様々存在するとは思うけど思うだけで僕の範疇外なのでそういうものは放置。
さてさて幸福。過去の僕は幸福に成りたかったようで子供の頃の作文に将来の夢は幸せに成りたいと書いてあった。こんな僕でも。寧ろこんな僕だからこそ成りたかったのかもしれない。そして成れると思っていたらしい。過去の僕が特別に不幸だったわけではないと思う。特に忘れたい事ばかり覚えていて思い出せば後悔するような過去ばかりだが、実際は良い事も悪い事も人並みに在って楽しい事も悲しい事も同程度で成功も失敗も適度な割合で存在していたはずだから。
現在の僕は幸福に成れるならば成りたい。欺瞞に満ちてようが虚偽で構築されていようが詐称されたものだろうが贋作だろうが偽物でしかなくても蜃気楼のように実体に触れられなくても砂上の楼閣のように脆いものでも、幸福に成れるのだったら何だって構わないと思う。が幸福とは何かを考えた時、僕は幸福に成れないのではないかとも思う。
問。幸福とは何?
答。和。
幸福に成る為に必要な条件は人によって違う事柄も在るが、誰しもが絶対に必要とする第一の条件は自分の周囲の人達と仲良くする事だと思う。どれだけお金を所有していてもどれだけ知識を所有していても人間は親しく会話をする相手が一人も居なければ寂しいと感じる。人間は集団生活をする生物なのだから当然だと思う。
ところで僕は周囲の人を傷つけたり怒らせたりする性質が在るらしい。らしいと言うのは幾人かの人達に言われたからなのだが、僕は意識してやっているわけではないので知らず知らずのうちにという事になる。恐らく僕の態度や言動、雰囲気での事だと思うけど具体的に何が問題なのか分からないから対処のしようがない。そして僕は無意識的にだろうと意識的だろうと傷つけたり怒らせたりするような人間と付き合いたいとは思わないし、多分僕以外の大勢の人達もそう思うだろう。そうすると僕には親しく付き合う人間関係が作れないという事で、それは僕は幸福には成れないという事だ。例外として異常に心の広い人間か、もしくは僕みたいな人格でも構わないというような際物な人格を有する人間ならば親しい関係構築が可能かもしれないけれど可能性は極めて低いと思う。低いからこその例外。可能性が無いよりは良いかもしれないけれど。むしろ無い方が良いのかもしれないけれど。
誰とでも仲良くするのは無理かもしれないけれど、せめて自分の大切な人達や好きな人達と仲良く出来れば幸福に成れると思う。