格好良く生きて格好良く死ぬ。のが男女に関係なく人間の生き様として一つの理想なのではないかと思う。顔とかのような形の話ではなく生き方のような行為の話。
僕は基本的に自分の意志を拘束するものは自分自身でしかないと思っている。法律などは抑止力にはなっても抑止力以上にはなりえないと。想像するだけならば自由(自由の概念と定義は多々在るだろうけれど置いておく)であるというのはその象徴ではないだろうか。
何をしようと本人の自由意志だけれど、その代償として責任とリスクが必ず付き纏う。それが社会的に善い事であってもだ。単純に歩くという行為だけを取り上げても歩くにはエネルギーが必要で、転ぶ可能性も在るし事故に遭う可能性も在る。日本ならば裸で歩くのも不可能ではないが捕まる可能性が非常に高い=リスクが高いので、それを回避する為の準備も必要となる。それでも歩いた場合、歩いたという責任が発生する。
行動するのならば責任、リスク、エネルギーなどを覚悟すべきだと思う。どのような意思から生じた行為でも覚悟が出来ないなら行なわない方が良い。覚悟が在るならば自分の行為に恥じたりせず胸を張れるはずではないだろうか。
時に物語の中の悪党を格好良いと思うのは、彼等が覚悟して行なっているからではないかと思う。社会的に悪事と判断されると認識しながらも、それ故にリスクが大きいと認識しながらも、自分の信じる事を行なう。それは決して褒め称えられるべき行為ではないのかもしれないが、それでも格好良いと思ってしまうのは胸を張って生きるのが生き方の一つの理想だからではないだろうか。
言い分けしながら生きてゆくのも一つの方法ではあると思うけれど、格好良くはないと思うし憧憬を抱いたりもしない。胸を張れないだろうし、誰よりも言い訳をする本人が一番みっともないと思うだろう。
僕にはまだ覚悟がない。胸を張れない。でもせめて恥じないようにしたい。いつか格好良く生きて格好良く死ぬようになる為に。